1960年、最古(?)の東京大阪タイムトライアル

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1960年の自転車雑誌を調べていた所、その名も「東京-大阪タイムトライアル」という記事を発見。

挑戦していたのは、京都の大学生・荒川博之氏でした。

目次

導入

ここ最近、調査レポートの作成のために、再度「自転車での東京大阪」の調査をしています。

今回の調査の目的

ここ最近は、目黒の「自転車文化センター」に入り浸っています。

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恐らく、国会図書館に次いで自転車に関する書籍が揃っている施設です。職員の方も自転車の歴史に詳しいですし、自転車に関する調べ物をするならここが一番。

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今回の調査の目的は、1969年に「大阪→東京」に挑戦し、23時間46分で完走した藤田さんの挑戦のキッカケとなった記事を探すことです。

その記事について、藤田さんから聞いて分かっていることは以下の3点。

① 藤田さんが中学生の頃(1961~63年)に、お兄さんが持っていた雑誌を読んだ。
② ニューサイクリングの初代編集長である、今井彬彦氏が関わっている雑誌だったはず。
③ 挑戦の方向は「大阪→東京」で、24時間は超えていた。

色々と調べた結果、今井氏はニューサイクリングの前に「サイクル」という名前の雑誌に在籍していたことが判明。この雑誌は、1953年~1962年8月まで刊行されました。時期的にもピッタリです。

自転車文化センターにも完全ではないもののサイクル誌があったので、片っ端から調べてみることにしました。

荒川氏の記録を発見

サイクル誌の1960年11月号の目次を見ていて、手が止まりました。

「東京-大阪タイムトライアル」

こ、この見出しは藤田さんが見たという記事なのでは……。少なくとも、この「東京大阪タイムトライアル」という文言が雑誌で使われたのはこれが初めてのはず。

内容を見ると、スタートが「東京・六郷橋」、ゴールが「大阪・守口市」と、国道1号線の両端を走る現在のキャノンボールよりも30km程度短いコース。

しかし、そのタイムは23時間52分と、24時間を切っています。以後の「東京大阪タイムトライアル」は、ほぼ全てが国道1号線の両端を走り切るものだったので直接的な記録の比較は出来ません。ただ、「東京都」と「大阪府」という意味では、24時間を切った最初の記録ではないでしょうか。

なお、藤田さんに「見たのはこの記事ですか?」と電話で聞いてみたところ、「違う」とのことでした。以下、藤田さんのコメント。

私が見たのは大阪スタートで東京ゴールのレポートでした。
あと、東京のゴールは日本橋だったはずなんですよね。
当時は第一京浜が自転車通行禁止だったので、都内がどういうルートだったのかは分かりませんが……。
そのレポートを見たから、私の1969年のチャレンジは大阪スタートにしたんです。

ということで、藤田さんが見たレポートは別にある様子。そちらはまだ発見できていません。

ただ、この荒川氏の記録も面白いので、本記事ではその内容を紹介していきます。

荒川氏のプロフィール

サイクル誌の記事によると、1960年の段階で大学4年生だったようです。恐らく1938年生まれ。

京都在住で、同志社大学の自転車部に所属。

1959年5月に開催された、「第3回 東京-大阪間 全日本学生ロードレース」に出場経験があり、1日目の「東京~静岡」区間に出場。6時間6分55秒の好タイムで完走しています。

東京-大阪間 全日本学生ロードレースは、1957-59年に開催された、大学対抗のレースです。今で言うインカレ。
1日目に東京~静岡、2日目に静岡~名古屋、3日目に名古屋~大阪。
各大学から1日に2名が走行し、計6人が走行。その6人の合計タイムで優劣を競う形式だったそうです。なお、この大会は第三回を最後に開催されていません。箱根駅伝くらい面白いコンテンツだと思うのですが……。
1959年7月、荒川氏は京都の自転車仲間2人と一緒に、「京都:三条大橋」→「東京:六郷橋」に挑戦(結果は後述)。
1960年9月に「大阪:守口」→「東京:六郷」のチャレンジを目論むものの、四日市でトラブルによりリタイヤ。その4日後に逆方向でリベンジを試みます。そちらが今回紹介する「東京-大阪タイムトライアル」になります。

1959年 京都(三条大橋)~東京(六郷橋)

荒川さんの「東京→大阪」チャレンジの前段となった「京都→東京」チャレンジの内容について紹介します。

この内容は、サイクル誌と同じく1950-60年代に刊行されていた自転車雑誌「サイクリングツアー」の1959年9月号に収録されていました。

チャレンジの概要

1959年7月に、荒川さんを含む京都の大学生3名で実施。

この3名はいずれも「東京-大阪間 全日本学生ロードレース」に選手として参加経験があるようでした。東海道に思い入れのある3名だったと言えます。

スタートは、京都の三条大橋。東海道五十三次の終点です。

ゴールは何故か東海道五十三次の始点である日本橋ではなく、多摩川に掛かる六郷橋。確かに多摩川を超えれば東京都ではあるのですが、日本橋まではまだ20km近くあります。ちょっと中途半端な感じはしますが、その理由は特にレポートには書かれていませんでした。

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こちらの記事で書いたように、六郷橋が通る第一京浜(国道15号線)は当時、自転車通行禁止ではあったようです。でも、それなら六郷橋ではなく、国道1号線で多摩川大橋を越えれば良いはず。少しでも距離を短くしたかったのかもしれません。

なお、記録を調べると、1959年当時の国道1号線の舗装率は97%。3%は未舗装区間があったということです。1962年には舗装率が100%になっています。

挑戦者

挑戦したのは3名。

① 湯口豊さん
京都大学サイクリングクラブ所属。
東京-大阪間 全日本学生ロードレースでは、「静岡~名古屋」区間に出場。5時間31分58秒で完走。

② 小西寧さん
同志社大学サイクリングクラブ所属。
東京-大阪間 全日本学生ロードレースでは、「東京~静岡」区間に出場。5時間56分36秒で完走。

③ 荒川博之さん
同志社大学サイクリングクラブ所属。
東京-大阪間 全日本学生ロードレースでは、「東京~静岡」区間に出場。6時間06分55秒で完走。

荒川さんはソロで京都→東京を41時間で走破した経験があったようです。

3人ともバリバリの競技者でしたが、当時の実力的には荒川さんよりも湯口さん・小西さんのほうが走力はあると見られていたようです。

結果

結果としては、3人全員が完走。タイムは以下です。

荒川さん: 26時間25分
湯口さん・小西さん: 27時間30分

下馬評を覆し、一番早かったのは荒川さん。湯口さんと小西さんは途中で体調を崩したものの、最後は一緒にゴール。

なお、ゴール確認は六郷橋のたもとの交番(当時はポリボックスと呼んだらしい)で紙に時間をサインしてもらったようです。海外のブルベみたいなタイム証跡取得方法ですね……。

その後

荒川さんはトップでゴールしたものの、タイムに納得が行っていなかった様子。

レポートの最後に、「今秋か来春にも再挑戦したい」と書かれています。少し遅れることになりましたが、翌年の9月に再挑戦をすることになりました。

1960年 東京(六郷橋)~大阪(守口)

荒川さんの「東京→大阪」チャレンジの内容について紹介します。

この内容は、サイクル誌の1960年11月号に収録されていました。

チャレンジの概要

1960年9月27日に実施。

当初は「大阪→東京」方向での挑戦を予定しており、実際にスタート。しかし、内定先の会社から「明日出社せよ」との連絡が実家に。実家の家族は警察に協力を依頼し、指名手配を掛けて四日市で荒川さんを確保した……とレポートに書かれています。家族がメチャクチャ過ぎる。

中途半端な状態でチャレンジを停められてしまった荒川さんは、翌日出社した後に、その翌日の夜行列車で東京へ。逆方向でスタートをすることにしました。

スタートは前回の「京都→東京」のゴールであった六郷橋。そして、ゴールは大阪府守口市。国道1号線走破であれば大阪側のゴールは梅田新道となるはずですが、何故かそれよりも10kmほど手前の守口市がゴールとされています。

家が守口にあったのなら分かるのですが、記事末尾に書かれた彼の住所は京都市。なぜ守口をゴールにしたのか記事には書かれていません。

3人で走った前回とは違い、今回はソロでノーサポート。その後の「東京大阪タイムトライアル」がサポートカー必須だったことを考えると、挑戦スタイルは現在の東京大阪キャノンボールに近いですね。

結果

東京・六郷橋を午前3時40分に出発し、大阪・守口に翌日の午前3時32分にゴール。

23時間52分で、約530kmを駆け抜けました。

京都では、前年のチャレンジに一緒に挑戦した湯口さんも駆けつけたそうです。

湯口さんは、荒川さんの親御さんから「大雨の予報が出ているから、京都で打ち切り大阪までは走らないように」との伝言を預かってきたようです。それに対して、荒川さんは以下のように解釈しています。

もし両親が本心より中止させる気になれば、途中で待ち伏せ、強引に連れ戻すはずである。
友人に頼んでおくだけで、当人たちは安閑と夢路を結んでいるのに決まっている。
結局、大阪まで細心の注意を払って完走せよとの忠告であろうと判断した。

今も昔も、サイクリストのオーバーナイトライドは家族には理解されぬもの。それを都合よく解釈していて笑ってしまいました。「夢路を結ぶ」という表現がカッコよすぎます。

ただ、就職内定先からの出社依頼を守らせるために警察に指名手配までさせたご両親なので、確かに本気で止める気ならば待ち伏せていたでしょうね。

機材

レポートには細かく機材やウェアについての紹介がありました。まずは機材から。

フレーム 山王イージーオーダー スリストロング
20インチ(シートチューブ長と思われる)
リム アラヤ軽合中空
タイヤ ソーヨー #120 チューブラー
チェーンリング 2段(48-46T)
スプロケット 5段(15-24T)

藤田さんに聞いたのですが、当時のソーヨーのタイヤは重さを「匁(もんめ)」で表したものを型番としていたそうです。1匁=3.75gなので、120匁だと450gということになります。ちょっと重めのチューブラーですね。

ウェア

ポロシャツにレーサーパンツという出で立ち。夜間用に腹巻きを持ち歩いていたようです。

面白いのが、ポロシャツの腰の左右と、レーサーパンツにスコッチテープ(反射テープのこと)を縫い付けていたという点。藤田さんも同様のことをしていたという記載があり、当時は割りとメジャーな被視認性を稼ぐ手段だったことが伺えます。

ライトの性能が悪い時代、オーバーナイトライドではこうして存在をアピールすることが重要だったのでしょう。

補給食

「出発以来口にしたもの」ということで、下記が列挙されていました。

ビスケット: 100円分
パン: 60円分
すあま: 7個
生卵: 8個
りんご: 1個
みかん: 4個
ぶどう: 1個
粉末ジュース: 120g
牛乳: 9合(1.6リットル)
水: 2合(0.4リットル)
中華そば: 1杯
豚汁: 1合(0.2リットル)
アイスキャンデー: 4本
ビタミン剤: 4個
カフェイン錠剤: 2個

現代のキャノンボールで主な食料調達手段であるコンビニが全国に普及したのは1980年頃から。このチャレンジが行われた1960年には、もちろんまだ1件も存在しません。

1970~1982年の東京大阪タイムトライアルでは、サポートカーが付いており、そこから補給食を得ることが出来ました。しかし、荒川さんはソロチャレンジです。

レポートを読むと、下記の記述があります。

スタート以後、全ての食事はサドルの上で済ませてきた。
停車時間を最小限に切り詰めるべく、飲食物はパン屋・菓子屋で1箇所10分以内で、パン・ビスケット・卵・果物・飲み物等を買い込み、体の負担にならぬよう一食分以上を買って腰のポケットに入れた。
そして絶対に満腹感を覚えぬよう、常に腹6-7分目程度に補給し、空腹感が来れば下車して飲食物を買い、サドルの上で済ませたのである。

補給のための停車時間を切り詰めてタイムを削るのは現代のキャノンボーラーにも通じるスタイル。個人的にはファストランの極意だと思っていますが、60年も前にそのスタイルに行き着いている荒川さん、凄い。

ただ、鈴鹿峠を登りきった所で無性にラーメンが食べたくなり、一度だけ食堂に入ったと書かれています。

せっかく満腹感を覚えないように頑張っていたのに、食堂で座ってラーメンを食べたら満腹になって眠くなってしまったようです。なんか分かる。

その後

無事、大阪まで完走した荒川さんは、以下のような計画をぶち上げています。

私はサイクリストの健脚ぶりを競うべく、新しいタイプのタイムトライアルを是非実現したいものと思っています。
まずその手がかりとして、来年6月を目標に、東京大阪より志を同じくする東西のサイクリストが同時にスタートして健脚を競ってみたいと思います。
(中略)
サイクル3月号の座談会で、NCJCの羽鳥氏が耐久レースをやってみたいと漏らしておられましたが、関東にもこういうへそ曲がりは居られるようです。
関西でも同じ志を持った輪友が居ります。
従って、前記の東西対抗レースは可能であると思います。

ただ、サイクル誌を読んだ限りでは、このイベントが開催された痕跡は発見できませんでした。さすがに時代が早すぎたのかもしれません。

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時は流れて10年後、サイクルスポーツ誌とニューサイクリング誌に掲載された藤田さんの「東京→大阪」走行レポートをキッカケに、奇しくも荒川さんが思い描いたイベントに近いものが自転車雑誌の誌上で繰り広げられることになるのでした。

まとめ

途中に宿泊を挟まない「東京大阪」間のノンストップライドでは最古と思われるレポートの紹介でした。

当サイトで取り上げてきた挑戦は「国道1号線の端から端(日本橋~梅田)」を挑戦区間としており、「六郷橋~守口市」を挑戦区間としたこのレポートは少し趣きが異なります。ただ、現在の東京大阪キャノンボールと同様、ソロでノーサポートのチャレンジという点で、これも一つの源流と思えるチャレンジではありました。

あと、荒川さんのレポートは心情描写が生々しく、その内容が現在のロングライダーにも共感できる内容でしたね。先述の「家族に理解されない」話もそうですが、個人的に響いた一節を以下に挙げます。

なぜ私がこんなにまで夜を徹して走りたいのか自分にも分からない。
しかしこの東海道を体力、気力の続く限り走ってみるということに非常な魅力を感じる。

この一節は頷いてしまいました。60年前も同じような思いを持って走っていた人がいたのだなと。

本来探していたレポートとは別のものでしたが、良いレポートと出会うことが出来ました。歴史調査は楽しいですね。

著者情報

年齢: 38歳(執筆時)
身長: 176cm / 体重: 82kg
自転車歴: 2009年~
年間走行距離: 10000~15000km
ライドスタイル: ロングライド, ブルベ, ファストラン, 通勤
普段乗る自転車: BIANCHI OLTRE XR4(カーボン), QUARK ロードバイク(スチール)
私のベスト自転車: LAPIERRE XELIUS(カーボン)

# 乗り手の体格や用途によって同じパーツでも評価は変わると考えているため、参考情報として掲載しています。
# 掲載項目は、road.ccを参考にさせていただきました。

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この記事を書いた人

ロングライド系自転車乗り。昔はキャノンボール等のファストラン中心、最近は主にブルベを走っています。PBPには2015・2019・2023年の3回参加。R5000表彰・R10000表彰を受賞。

趣味は自転車屋巡り・東京大阪TTの歴史研究・携帯ポンプ収集。

【長距離ファストラン履歴】
・大阪→東京: 23時間02分 (548km)
・東京→大阪: 23時間18分 (551km)
・TOT: 67時間38分 (1075km)
・青森→東京: 36時間05分 (724km)

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