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東京大阪タイムトライアル、レコード更新を影で支えた参謀
1970年に藤田照夫さんが立てた「東京→大阪」の走破記録・23時間07分。本記事では、その記録の更新に挑んだ方について述べます。名前は橋本治。その挑戦の前年に国体ロード王者となった、当時のアマ最強選手です。
記録の更新のため、どんな戦略が取られたのか。そしてどんな自転車で走ったのか。1973年に行われた、タイムトライアルの詳細を追いました。
導入
以下の記事で、初の「東京大阪タイムトライアル」で24時間を切った人(藤田さん)について書きました。

この記事を書いた後、次に気になったのは、この藤田さんの記録を破った人の存在。これまたcannonball!!wikiによれば、3年後の1973年に橋本さんという人によって破られています。記録は一気に2時間以上更新され、20時間50分。
恐らく、当時の実業団でも最強クラスであったであろう藤田さん。機材も3年では大して進化はしていないはず。にもかかわらず2時間以上も記録を更新した橋本さんとは何者なのか?俄然、興味が湧いてきました。当時、この手の挑戦をすると雑誌に取材されることが多かったようなので、どこかの雑誌にレポートの掲載があるはず。
調べる先はもちろん、自転車文化センター。ニューサイクリングの目次データベースから、1973年の11号に掲載があることを確かめ、受付の方に書庫から持ってきて頂きました。
ページをめくると、「東京-大阪タイムトライアル20時間50分」という見出しの書かれた記事が。8ページに渡る大特集です。記事の著者は、取材に同行した編集部の方(藤田さんの挑戦時にも伴走車に乗っていたらしい)。ただし、走者である橋本さんのレポートも2ページに渡って掲載されていました。最も驚いたのは、この橋本さんは1972年に行われた鹿児島国体のロード競技の優勝者であったこと。しかも、独走を得意とし、150km中50kmを逃げて勝ったそうです。本物のルーラーですね。
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このご本人によるレポートで、一点気になった文章がありました。それは、
「とにかく自分は、走者としての責任を果たすだけで良く、
他のことは一切考えなかった。
実際に準備の段階ではほとんど何も行わず、食料の好みや、
使用タイヤ、それと出発時刻についての希望を言ったくらいであった。」
というもの。事前の作戦と、挑戦中のサポートは全て「港サイクリングクラブ」がやってくれたとのこと。確かに記事を読むと、この橋本さんは当時鹿児島在住で、わざわざこの挑戦のために東京まで移動したそうです。つまり、東京-大阪間に土地勘は無かったということになります。しかし、レポートには「道に迷った」という記述は一切ありません。
東京-大阪間のルートは難解です。本ブログでも攻略法を解説していますが、国道1号線を何も考えずに走ることは不可能。突如出現するバイパスや高架によって、自転車は迂回を余儀なくされるのです。私も初の「大阪→東京」挑戦時には予習していたにもかかわらず何回も迷いましたし、先述の藤田さんもバイパス回避にはかなり苦労されたと仰っていました。
それだけ一筋縄では行かない「東京-大阪」のルート。それなのに、橋本さんは「他のことは一切考えなかった」と書いています。これはバックアップを行った「港サイクリングクラブ」が鍵を握っているに違いありません。
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この「港サイクリングクラブ」という文字を見て思い出したことがありました。
以前、東京の三田にあるクラブモデル(イギリス発のスポーツ自転車)の専門店「シクロサロン植原」に伺った時のことです。店の扉が開いていたので店に入ったものの、店主さんの姿は無し。「すみません」と声を掛けても、誰も出てこない。店内を見回すと、入り口のドアの上に
「東京-大阪タイムトライアル ◯◯◯君」
と書かれた白黒の写真が貼られていました。その時は結局店主さんには会えず店を後にしたのですが……確かこの時に見た名前が、「橋本治」だったはず。
調べてみると、「港サイクリングクラブ」の本拠地はその「シクロサロン植原」。きっと、この店の店主さんならば橋本さんの挑戦についてなにか知っているはず。そう思い、三田へと向かいました。
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二度目の「シクロサロン植原」。やはり今回も店主さんはおらず、声を掛けても誰も出てこない。諦めて帰ろうとしたその時……店の奥から人影が。店主にして、港サイクリングクラブの会長である植原郭(うえはら かん)さん、その人でした。
入り口の上に飾られた写真を指差し、「少しこの写真について聞かせて頂いても宜しいですか?」と聞くと快諾を頂きました。
「橋本君のトライアルね。あれの計画を立てたのは私ですよ。
伴走車の助手席から指示も出してました。」
そう、記事に書かれていた「監督」こそ、この植原さんだったのでした。ここから先の記事は、シクロサロン植原にて店主・植原さんから聞いた話と、ニューサイクリング1973年11号から構成したものです。
橋本さん(走者)のプロフィール
1948年生まれ。前の記事で書いた藤田さんと同い年です。
元々東京在住で港サイクリングクラブに所属していたものの、就職で九州へ。そこでロード競技と出会い、メキメキと頭角を現したそうです。植原さんが練習法についてアドバイスを求められた際に半ば冗談で、
「とにかく雨でも風でも毎日100km走れ」
と言った所、本当に毎日そのメニューをこなしていた真面目な選手だったそうです。
1972年の鹿児島国体ロードでは、50kmを逃げ切って優勝。脂の乗り切った時期にこの挑戦が行われたことが分かります。
現在は東京在住で、今でも港サイクリングクラブのイベントには顔を出されるそうです。5年毎に記念行事として行っている「東京→直江津」ランでは、56歳にして10時間20分という記録だったとか。毎回30分ずつ遅くなっているそうですが、未だ十分健脚でいらっしゃるようですね。
植原さん(監督)のプロフィール
1940年生まれ。法政大学を卒業後、丸石自転車に勤務。数年で退職して「シクロサロン」を開店したものの、丸石自転車には嘱託にて在籍。あの「丸石エンペラー」の設計を手がけたお方。
今回取り上げた挑戦で使用された自転車も、植原さんの店のオーダー車だったそうです。
元々、「山王スポーツ」の店主が始めた「港サイクリングクラブ」。それを譲り受ける形で、現在は植原さんがクラブの会長を務めています。
挑戦動機
ニューサイクリング掲載の橋本さんご本人のレポートによれば、
「クラブの集まりでお喋りをしている時に何となく
“東京→大阪を走りたいですね”と先輩に言った所、
“よし、やろう”と言われ、自分でも本気でやる気になった。」
と記載があります。当然意識したのは、1970年の藤田さんによる東京→大阪タイムトライアルの23時間07分という記録。
作戦を立てた植原さんはこんな風に仰っていました。
「照夫(藤田さん)は、私の後輩なんですよ。法政大学、丸石自転車という経歴はすっかり一緒。
彼の記録を抜こうってことになったんですよね。」
「条件を合わせるために、ルートは照夫と同じものにしたんですよ。」
1970~73年の間に東京→大阪タイムトライアルの記録は塗り替えられなかったようで、そこで国体王者がその記録に挑む……という構図だったようです。
目標は22時間。1973年9月5日の午前5時、皇居前から大阪に向けてのトライアルが始まりました。
挑戦結果
スタートは皇居前、ゴールは大阪市の国道1号線終点。ルートは国道1号線準拠(バイパスは回避)。前述の通り、藤田さんとすっかり同じです。サポートカーも、藤田さんと同じくアリ。港サイクリングクラブのサポートカーに加え、取材としてニューサイクリングの車と、報知新聞社の車が同行したそうです(新聞にも記事が載ったらしい)。
タイム: 20時間50分
平均時速: 27.4km/h
天気は曇り時々晴れ、気温は18~25℃と、かなり恵まれたコンディション。ただし、静岡区間では向かい風に苦しんだそうです。この辺りは今も昔も一緒ですね(大体、藤枝のあたりから向かい風がキツイ)。
全停止時間は2時間52分。これも恐らく、信号停止時間は含んでいません。走行時の平均時速はゆうに30km/hを超えている計算になります。向かい風の区間もあってコレですからね……。
走行距離は560.9km。藤田さんは544kmとありましたが、恐らく560.9kmの方が正確な距離です。現在の国道1号線でバイパスを回避した場合の距離が555.0km。当時のバイパス回避ルートは分かりませんが、少し迂回すれば5kmくらいは多く走ることになるはずです。
こちらは詳細なタイムテーブル。現代の「東京大阪キャノンボール」においては、「なるべく休憩時間は短く」というのが定石となっていますが、橋本さんはかなりガッツリ休むタイプだったようです。よくこれだけ休んで20時間50分という記録が出せるものです……。
ルート&計画
前述のように、今回は橋本さんが道に迷った記述はありません。GoogleMapも無い1970年台にどうやって正確な自転車向けのルートを引いたのか? 作戦を立てた植原さんに質問してみました。
「もう既に当時からウチ(港サイクリングクラブ)は全国各地を旅していましたから。
クラブ員の持っている地図を集めれば全国の詳細な地図が手に入ったんですよ。」
「バイパスについては現場に行かないと分からない。
でもそれも実際にツーリングで走ったクラブ員が知っていたんです。」
なんと、1973年にクラブ員の集合知で正確な「東京→大阪」ルートが出来上がっていたというのです。これには驚きました。この当時で既に創立24年を迎える老舗クラブということだけあり、メンバーの総力を結集すればこれくらいは造作も無いことだったのかもしれません。
走行計画についても事前に作成しており、目標の22時間に対して、実際には21時間30分の予定で行程を作ったとのこと。事前に何度か橋本さんに100km程度の距離を走ってもらい、登り・平坦・下りのペースを掴んだ上で行程を立てたそうです。このアプローチは私が実際に「東京→大阪キャノンボール」に挑戦した時に取った方法とほぼ同じ。40年も前に同じ方法で作戦を立てていた人がいたわけですね。
結果として、計画よりも40分ほど速い20時間50分という記録が生まれたのでした。
自転車
挑戦に使った自転車についても、植原さんに聞いてみました。
「フレームはウチのオーダーフレーム。
車重は9kgくらいで、そんなに軽くはなかったな。」
「ただ、車輪は軽くした。
320gの軽量リムに、240gのチューブラータイヤ。
フレームよりも、車輪の方が影響は大きいからね。」
ニューサイクリング掲載のレポートによれば、ホイールは以下の仕様だったとのこと。
・リム: スーパーチャンピオン(チャンピオンドゥモンド)
・ハブ: Campagnolo Record 36H
・タイヤ: Hutchinson Corsa GT(240g)
タイヤを合わせた前後輪重量は2kg前後だったそうです。当時としてはかなり軽いのではないでしょうか。
ギヤは、前が50-46T。後は5段変速で14-21T。箱根は50-18Tで登り切り、鈴鹿は50-16Tで登り切ったそうです。信じられない。
装備
藤田さんと同じく、パッド無しのレーパン。ライトは夜の間だけ伴走車から渡して取り付けたそうです。ただ、基本的には走者の10~20m後ろから伴走車が追いかけていたようで、車のヘッドライトで視界は良好だったとのこと。
その他
ニューサイクリングの記事によると、走者の橋本さんの身長は163cm。初の「東京→大阪」24時間切りの達成者である藤田さんも、恐らく160cm代。そして、1982年に橋本さんの記録を破る大塚さんの身長は158cm。いずれも身長は高いとは言えません。
実は、現代の「東京→大阪キャノンボール」では全く逆の傾向で、基本的に24時間切りの達成者の多くは身長170cm以上です。少なくとも私の知る限りでは、165cm以下の人はいません。平地が大半を占める東海道においてはパワーを出しやすい大柄な体格の方が有利であるはずです。しかし、初期の挑戦者たちの多くが決して大柄とは言えなかったというのは中々興味深い事象であると言えましょう。
まとめ
今回は、伴走車に乗っていた植原さんの立場から、挑戦の裏側を聞くことが出来ました。
私が「東京大阪」の挑戦のコツを聞かれた際には、
「計画が8割。ルートの下見をして、実績から計画を立てること」
と答えることが多いのですが、既に40年も前に同様のアプローチを「参謀」として授けていた人がいた事には驚かされました。
走者の橋本さんは、このチャレンジについて以下の様に述べています。
「このようなロードタイムトライアルは、一人では絶対に出来ないと思っている。
監督、メカニシャン、自動車のドライバー、そして走者が一つのチームとして
まとまった行動をしてこそ初めて、良い結果が得られるのである。」
まさに20時間50分という結果は、「港サイクリングクラブ」が一丸となって得た結果であったと言えるでしょう。現代まで続く、「東京大阪」攻略のルーツをここに見ました。
(終)
