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歴代最速?東京→大阪、19時間45分の記録を追う
1973年に、橋本治さんが建てた「東京→大阪タイムトライアル」の記録、20時間50分。それから9年が経過した1982年、この記録を更新する人が現れます。
大塚和平さん、当時32歳。67歳となった現在でも精力的にホビーレースに出場するお方ですが、当時はフルタイムワーカーながら、プロ選手と鎬を削る日本最強クラスのレーサーでした。
新聞やテレビにも取り上げられたチャレンジについて、ご本人にお話を聞いてきました。
導入
「東京~大阪タイムトライアル」の歴史を振り返る記事を、これまで2回書いてきました。1つ目の記事は、初めて24時間を切った藤田さんに。2つ目の記事は、藤田さんの記録を塗り替えた橋本さんのブレーンであった植原さんにインタビューしてきました。今回は、更にその記録を塗り替えた大塚さんのエピソードについて掘り下げていきます。
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お話を聞くにあたって、大塚さんの所属するチームの掲示板に「お話を聞かせてください」と書き込ませて頂いたのですが、それに対するお返事は「とりあえずチームの朝練に参加してみてください」とのことでした。私としては喫茶店あたりでゆっくり話を聞く予定だったのですが、60㎞のレースペースの練習に参加。練習後の時間にお話を聞くことが出来ました。
本記事は、大塚さんご本人の話と、2012年にサイクルスポーツ誌に連載されたコラム「100歳まで走る」(著者は大塚さん)の内容を元に纏めています。
挑戦動機
1980年頃のサイクルスポーツ誌に、「大阪→東京」を19時間59分で走った大学生の記事が載っており、それに触発されて挑戦を決意したそうです。この大学生は、井手一仁さんと言って、後に日本縦断(2683km)を127時間36分で走破するスーパーロングライダーです。ちなみに井手さんのルートは「日本橋→日本橋」。大阪の「にっぽんばし」から東京の「にほんばし」を目指すルートだったようです。
一方、大塚さんは当時教師をしながら実業団レースに参加。「東京→大阪」の挑戦前年である1981年の全日本実業団では4位を記録。1-3位は、高橋松吉・紙谷明・三浦恭資という、宮田工業の強豪。この人たちを向こうに回しての4位ということで、当時日本でも最強クラスの脚を持っていたと言えるでしょう。
大塚さんは「東京→大阪」の方向で挑戦することを決定。井手さんの挑戦は「大阪→東京」なので逆方向となりますが、記録を塗り替えることを目標としたそうです。恐らくこの時点で「東京→大阪」の最速記録は、以下の記事でも取り上げた橋本治さんの20時間50分だったはず。大塚さんもこの記録は知っていたようです。
ルート&計画
当時中学校教師だった大塚さんは、長期休みが取れる夏休み期間の挑戦を決定。梅雨明けを待って、7月末に挑戦することになりました。相当暑いことが推測されますが、大塚さんは問題が無いと判断。普段からレースでもボトル半分の水があれば十分らしく、暑さには強い体質のようです。
スタートは東京駅、ゴールは大阪駅。これまで記録を作った藤田さん・橋本さんは「皇居前→梅田新道」という同じコースを取っていましたが、大塚さんは若干違うコース取りをしたようです。
スタート時間は午前0時に設定。これは、ゴール時刻がそのまま挑戦の所要時間になり、計算がしやすいのが理由だったそうです。実際には、待ち合わせしていたテレビ局の車やサポートカーが来ず、少々迷った末に0時ちょうどから30秒程度遅れて出発したとのことでした。
基本的には、「国道1号線を辿ればどうにかなるだろう」ということで、ルートの予習は一切しなかったとのこと。戦略は「道路の青看板を見る」だけ。
挑戦結果
1982年7月31日の午前0時00分(30秒程度経過)から挑戦。スタートは、東京駅の丸の内口。ルートは国道1号線準拠です。サポートカーに補給と予備機材を積んでの挑戦でした。この頃になると既にコンビニも増えてきていましたが、基本的にはサポートカー頼りだったようです。
タイム: 19時間45分
平均時速: 28.2km/h
ゴールの大阪駅には、19時45分を数十秒過ぎたあたりで到着。スタートも遅れたので、19時間45分が最終結果。テレビ番組によると、休憩時間は28分(ご本人のレポートによるお40分)。これは多分、信号停止は含まず、意図的に休憩した時間だと思います。
基本的には天気は良かったものの、滋賀~京都の区間では雨。風向きは悪くなく、名古屋~四日市区間のみが向かい風だったとのことでした。確かにあそこは風向きが他とちょっと違います。
京都~大阪区間では、この挑戦のライバルとも言える「大阪→東京」の記録保持者・井手さんが応援に駆け付けたそうです(大塚さん曰く「新聞に予告が取り上げられたので、それを見たのではないか?」)。車からドリンクを貰ったと仰っていました。挑戦者同士の交錯、ドラマティックなエピソードです。
ミスコースは、聞く限りでは以下の3回。
・元箱根でショートカット(多分、畑宿入口から芦ノ湖)をしようとして失敗
・静岡のバイパスに入ってしまい、途中で引き返す
その他にも京都市内が混雑だったので道を変えたりと、色々とトラブルがあったようです。ルート研究をしなかったことには後悔されているようで、「ロスが無ければ19時間は切れていたかもしれない」と仰っていました。
ルート研究を十分に行い、完璧に走った橋本さんの記録(20時間50分)を、ミスコースをしながら1時間以上上回っているあたり、当時の大塚さんは異常な速さだったと言えるでしょう。
自転車
フレームは、手組の雄・RAVANELLOのスチールフレーム。コンポーネントは、SHIMANO DURA-ACE。1982年と言えば、エアロに振ったDURA-ACE AXが発売された年ですが、恐らく使用されたのはそれ以前のDURA-ACE EXだったと思われます。当時のDURAは7速です。
ホイールは、当時36Hが主流だったとのことですが、軽量化のために32Hを選択。
ペダルは、まだビンディングは無かったのでレーサーシューズにクリップ固定だったようです。
装備
頭にはカスク。レーパンには既にパッドが付いていたそうです。ちょうど大塚さんに話を聞いた時、練習に参加されていたメンバーの中に「ロードバイク進化論」の著者・仲沢隆さんがいたので話を聞きましたが、1982年は、ちょうどパッド付のレーパンが出てきた頃だと仰っていました。
「ロードバイク進化論」によると、合成皮革のパッドは1983年にパールイズミが出したのが最初らしいので、それ以前だとセーム皮のパッドということになるはずです。
他の人と違う戦略として、「シューズを2足用意した」とのことでした。当時は靴擦れをよく起こしていたため、サポートカーに予備シューズを用意。痛みが出る前に浜松で一度シューズを履きかえて、最後までノートラブルだったとのこと。
その他
この挑戦は朝日新聞にも予告が取り上げられ、それを見たテレビ東京の「サイクルにっぽん」という番組が取材に同行したそうです。ただ、待ち合わせ場所の連絡に行き違いがあり、スタート地点では合流できず。ゴール時も、大阪市街地の渋滞で取材車は大塚さんのゴールには間に合わず。
結局、取材車が大阪駅に着いた段階で「今着いた」感じでゴールシーンを撮り直し。スタートシーンは、後日東京駅周辺で改めて撮り直したそうです。34年経って明かされる、テレビ的エピソードでした。
また、大塚さんはこの翌年に「東京→青森」にも挑戦。30時間29分という驚異的なタイムで完走されています。こちらの記録は未だ破られたという話を聞きません。
まとめ
「圧倒的な走力を持つ人が走ると、ミスコースをしても早い」という事実を思い知らされる内容でした。多くの人にとっては、全てが上手く行っても24時間を切るのも難関だというのに、これだけ多くのトラブルがあっても20時間を切っているというのは驚異的と言う他ありません。
気になったのは、インタビューの終わり際に大塚さんが言っていた一言。
「自分の記録を塗り替えた人がいたと聞いている。
群馬の人だったと思うが……」
私は(すくなくとも日本人では)、歴代最速は大塚さんの記録だと思っていました。このシリーズも最後かと思っていたのですが、どうやらもう少し続ける必要がありそうです。
(終)