国体王者が「東京~大阪」、橋本治氏のCONTRE LA MONTRE

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本記事は、【ロードバイク Advent Calendar 2024】 11日目の記事として作成されました。


不定期に連載してきた「東京大阪TTの歴史」記事、久々の続編となります。

1973年、港サイクリングクラブの橋本治さんが当時の最速記録「20時間50分」を打ち立てました。本ブログでは、その際にルート設計から当日の走行管理までを担当した・植原郭さんへのインタビューを実施。ただ、走者である橋本さんにお話を聞くことは出来ていませんでした。

今回、縁あって橋本さんにお話を聞くことが出来ましたので、その内容を記事としてまとめました。植原さんへのインタビューと併せて読んでいただくと、より楽しめると思います。

目次

導入

まずは、今回インタビューするまでの経緯について書いていきます。

一人だけインタビュー出来ていなかった「走者」

1969年、藤田照夫さんが史上初めて東京大阪間を24時間以内に走破しました(大阪→東京/23時間40分)。

その1年後、藤田さんは再び「東京→大阪」にチャレンジ。23時間07分で走破し、自己記録を33分更新しました。

1969年のチャレンジは特に雑誌などに掲載されることはなかったのですが、1970年のチャレンジには「ニューサイクリング」「サイクルスポーツ」の二雑誌が帯同。その挑戦の様子は紙面に掲載されました。

この藤田さんの記録が一つのベンチマークとなり、そこから約13年に渡って「過去の記録への挑戦」が繰り返されていくことになります。その更新の歴史を以下に示します。

スクロールできます
年月挑戦者方向記録掲載誌関連記事
1969/5藤田照夫大阪→東京23:40藤田氏インタビュー
1970/4藤田照夫東京→大阪23:07ニューサイクリング
サイクルスポーツ
藤田氏インタビュー
1973/9橋本治東京→大阪20:50ニューサイクリング監督の植原氏インタビュー
1982/5井手一仁大阪→東京19:59サイクルスポーツ井手氏インタビュー
1982/7大塚和平東京→大阪19:45サイクルスポーツ大塚氏インタビュー
1982/9井手一仁大阪→東京19:45サイクルスポーツ井手氏インタビュー

大塚さん・井手さんの立てた「19:45」という記録があまりに凄かったせいか、その後はパタリと記録更新が止まります。そこから24年を経て2006年に「東京大阪キャノンボール」スレッドが2chに経つまで、「東京~大阪」というチャレンジは忘れ去られていたわけです(1990年前後にマイク・シュルツさんという人がチャレンジしたという話はある)。

1970~1982年までは「東京~大阪」チャレンジの黎明期とも言える時代ですが、本ブログではその当事者と実際にお会いしてインタビューを実施してきました。ただ、1973年のチャレンジに関しては、計画を立てて当日の伴走車に乗った植原さんには取材できたものの、走者である橋本さんには話を聞くことが出来ていませんでした。

橋本さんの知人と知り合う

転機が訪れたのは2023年。PBP出場のためにフランスに向かう飛行機の中です。

2023年夏、PBPへと向かう機内にて

飛行機後方にあるドリンクスペースで、乗り合わせたPBP参加者の方々としばらく雑談。その中に、大竹さんという方がいらっしゃいました。横浜の老舗クラブ「ヨコハマサイクリングクラブ」の代表をされているそうで。

どういう経緯でその話題になったのかは忘れましたが、「(大竹さんは)橋本さんと面識がある」という事をお聞きし、それに対して「機会があればインタビューさせてもらいたいですねぇ」とお話しました。

PBPから約一年が経過した2024年秋。大竹さんが橋本さんとサイクリングイベントでご一緒したらしく、その際に「インタビューをしたいという人がいる」と伝えてくださり、許可を頂けたとのこと。まさかPBPで知り合った方から東京大阪の話につながるとは思っていませんでした。

あれよあれよと話は進み、12/8(日)に都内某所のイタリアンレストランでお話をお聞きすることになりました。

橋本さんおすすめのイタリアンレストランの料理

以降の記事は、その際の橋本さんへのインタビューと、ニューサイクリング 1973年11月号の記事内容から構成したものです。

橋本さんのプロフィール

1948年生まれ。橋本さんの前に「東京大阪」の記録を保持していた藤田さんと同い年です。

大学までは東京在住で、港サイクリングクラブに所属。その後、就職で鹿児島へ。鹿児島に引っ越してからは競技に打ち込み、毎日練習を繰り返していたそうです。

橋本さんはみるみるうちに頭角を現し、1972年の鹿児島国体に代表選手として出場。ラスト50kmを単独で逃げ切り、見事優勝を飾ります。今回の記事で紹介する「東京大阪」チャレンジは国体優勝の翌年、選手としてピークの時期に行われたものです。

現在も港サイクリングクラブに所属し、副会長を務めていらっしゃいます

5年に1度のクラブイベントである「東京→直江津」ライドにも毎年参加しておられ、今年もハーフコース(150km)を完走。76歳にして未だ健脚を維持されています。

1972年 鹿児島国体・優勝

さて、まずは橋本さんを語る上で外せない、1972年「鹿児島国体」の話から。

合宿にスカウトされる

当時、仕事で鹿児島に住んでいた橋本さん。仕事と並行してロード練習をしていたある日、自らの前を走っている人を何気なく追いかけ始めました。サイクリストの本能ですね。

しかし、どれだけ走っても追いつかない。その段階で橋本さんはかなりの実力者だったはずですが、前を走っていた人は互角以上の力の持ち主だったことになります。その人が丘の上で停車して、橋本さんにこう言ったそうです。

「君、速いね。今度、国体の合宿があるんだけど来てみない?」

その人は国体の鹿児島代表選手。軽いノリで誘われた橋本さんは合宿に参加。本戦出場の権利も手に入れ、1972年の国体ロード競技への出場を決めたのでした。

橋本さん、国体王者へ

国体のロードレースがスタート。この年の国体会場は鹿児島。橋本さんが住んでいたのも鹿児島で、合宿をしていたのも鹿児島。つまりホームコースです。

橋本さんは残り50kmまで先頭集団で走っていたそうですが、特に逃げようとしたわけでもないのに集団の前に出てしまいました。普段の練習で走っているようなペースで走っていただけでしたが、地元コースということで自然と効率的な走りをしていたということでしょう。

結果的にそれで集団との距離が開いてしまい、そのまま逃げ続けることにした橋本さん。伴走するバイクが知らせる集団とのタイム差が不正確で苦労しながらも、そのままゴールまで逃げ切り。見事、国体王者となりました

こちらは、1972年国体のリザルトです。

2~8位のタイムは橋本さんと僅か5秒差。つまり、ツール・ド・フランスの逃げステージのゴールでよく見る、「逃げている選手の後ろに集団が迫っている」状態であったことが伺えます。

地元開催という地の利も活かし、橋本さんは大きな勝利を手に入れました。

なお、藤田さんによれば、当時の雰囲気として「全日本選手権・全日本実業団・国体は大体同じ人が出ていた同格くらいの大会だった」とのことです。この時点で橋本さんは日本トップクラスの力を持った選手だったということになります。

東京大阪 挑戦まで

国体優勝を成し遂げた橋本さん。そんな彼が、ひょんなことから「東京→大阪」に挑戦することになります。

きっかけはクラブの集まりでの一言

国体王者になった翌年。変わらず競技生活を続けていた橋本さんですが、7月に港サイクリングクラブの集まりに参加します。そこで何となく発言した一言が全ての始まりでした。

橋本さん

東京→大阪を走りたいですね。

クラブの先輩

よし、やろう!

国体合宿と同じく、またも軽いノリでエクストリームなチャレンジに挑戦することになったのでした。こうして口に出したことで、橋本さん自身も本気でやる気になったようです。

挑戦の準備を進める

8月に全日本実業団レースを終えた橋本さん。ここから「東京→大阪」の具体的な計画が進み始めました。

目標は、「1970年に樹立された藤田さんの記録(23:07)の更新」

橋本さんと藤田さんは同じ時期に選手としてレースを走っていますが、何度か顔を合わせた程度でこれといった因縁のようなものはなかったようです。

ただ、橋本さんが所属する港サイクリングクラブで「監督」の立場だった植原さんは、藤田さんの大学&会社の先輩(参考: 植原さんへのインタビュー)。そんな縁もあり、藤田さんの記録をベンチマークとして更新を狙うことになったようです。

チームでの「東京→大阪」挑戦

挑戦にあたっては藤田さんと条件を揃えるため、方向(東京→大阪)と、コース(国道1号線・京都周り)は共通とし、スタートとゴールも藤田さんと同じ場所に設定することが決まりました。

現在の「東京大阪キャノンボール」は単独チャレンジが基本で、道中でのサポートは不可とされています。これに対し、1980年代以前の「東京大阪タイムトライアル」ではサポートカーを付けて、チームで臨むのが普通でした。ここ数年盛り上がっている「日本縦断ギネス挑戦」もサポートカーを付けますが、それと同じ感覚だったということでしょう。

橋本さんは所属する港サイクリングクラブのサポートで走ることになりますが、このクラブの情報力はかなりのものだったようです。

1973年当時で創立24年を迎え、多くのクラブ員を抱えていた港サイクリングクラブ。ツーリングを主軸としたクラブだったこともあり、クラブ員たちが足で集めた「この道は自転車が通れる」「この道は自転車で走りやすい」という情報を膨大に持っていたようでした。静岡にも歯科医をやっている宮城島さんという会員がいて、ややこしい静岡県内のルート情報を提供して頂いたとか。

かくして、GoogleMapも存在しない1972年に、走行前からかなり精度の高い「東京→大阪」ルートが出来上がっていたようです。

同時に、橋本さんの走りをよく知る植原さんが走行計画を作成。21時間半での完走を目標に、詳細なタイムテーブルが作られたのでした。

試走も実施

8月末、仕事で京都に1週間ほど滞在することになった橋本さん。

これ幸いと、京都周辺の区間の試走を実施。大阪~京都や、鈴鹿峠周辺の区間はこの時に何度も走り、道や起伏パターンを頭に入れたとのことでした。

植原さんへのインタビュー記事には「(橋本さんは)東京-大阪間に土地勘は無かった」と書いたのですが、これは誤り。こうして鈴鹿峠~京都~大阪の区間は試走済みで、東京在住時代に都心~箱根も何度も走っていたそうです。一部の区間を除いて、東海道は割と走行済みだったようでした。

9月に入ってからは鹿児島に戻って通常の練習を続け、ついに「東京→大阪」挑戦日である9/16(祝日)を迎えることになります。

東京大阪チャレンジ

迎えた9/16(敬老の日)。ついに東京→大阪タイムトライアルが始まります。

二重橋前を午前5時にスタート

スタート時刻は午前5時、場所は皇居・二重橋前。橋本さんによると、このスタート時刻の理由は以下の通り。

橋本さん

計画を立てたのは植原さんなので正確な理由は分からないんですが、恐らく東京の渋滞を避けたかったんだと思います。
早朝のうちに都心を抜けてしまい、ゴールも交通量の少ない夜中にするために朝5時スタートがベストだったんでしょう。

これは現代のキャノンボールとも共通する話ですね。東京・大阪の2大都市での渋滞を避けるため、双方を深夜・早朝に持ってくるのは一つのセオリーになっています。この作戦を1973年当時に立案する植原さん、恐るべし。

スタートが日本橋ではなく二重橋前なのは、「先達の藤田さんのスタートが二重橋前だったから」

藤田さんが二重橋前をスタートとしたのは、「当時の日本橋付近の国道15号線は都電が走っていて自転車通行不可だったから」という理由でした。都電は1972年に廃線となっているので、橋本さんが挑戦した時には日本橋スタートとしても問題はなかったはず。ただ、「藤田さんとの条件を揃えるために二重橋前にした」ということです。

このチャレンジでは、伴走するサポートカーから監督(植原さん・森戸さん)が指示を出し、走者である橋本さんは指示に従って動くという体制が徹底されていました。走行中、橋本さんはほぼ自分で悩むことはなく、走ることに集中できたそうです。

天候は曇りで無風という絶好のコンディションの中、橋本さんは皇居前をスタートしました。

小田原で最初の休憩

目論見通り、都内は渋滞に引っかからずに通過。その後の横浜~戸塚も快走し、平塚にはわずか1時間50分で到着しています。

箱根を前に、小田原で最初の休憩。ここまで2時間25分しか掛かっていません。ちなみに、私が東京→大阪を23時間で走った際には、小田原まで3時間06分でした。この時点で31分も早い。国体王者の走力を思い知らされます。

ニューサイクリングのレポートには、「小田原で寿司を食べながら20分休憩を取った」という記述がありました。これは今のキャノンボールの感覚でいうと随分長い休憩です。その後の休憩も大体20分単位。これについて橋本さんに聞いてみました。

baru

一回一回の休憩が結構長めですけど、当時の橋本さんの走り方は「ガーッと走って、ガッツリ休む」というスタイルだったんでしょうか?

橋本さん

いえ、休憩のタイミングと長さも、全て伴走車からの指示で動いていました。同じクラブチームの人たちですから、私がどれくらい走ると疲れて、どれくらい休みが必要かを把握していたんだと思います。
休憩時には、食事だけではなくマッサージも受けていました。

完全に計画されたチームチャレンジ。全て自己解決の現代のキャノンボールとは異なりますが、これはこれで大変そうです。サポートカーが追いつかなかったりすれば計画崩壊ですし、自分のタイミングで休めない。ただ、走者のクセをよく知る監督からの指示であればそういったミスマッチも起こらなかったということでしょう。

天下の険・箱根へ

小田原での休憩を終えると、東京スタートでは最初の難関にしてクライマックスである箱根アタック開始です。どのルートを使ったかはお聞きしませんでしたが、レポートの経由地(大平台・宮ノ下)を見る限りだと国道1号線を使った様子。箱根旧道は当時でもまだマイナーだったということでしょうか。

シクロサロン植原に飾られている橋本さんの写真

「当時はかなり登りに自信を持っていた」という橋本さん。箱根湯本から国道1号最高地点まで、わずか42分で駆け上がっています

ちょっと気になって、この際にどれくらいのパワーが出ていたのかを計算してみました。箱根(湯本駅~1号最高地点)のプロファイルは、距離13.2km、標高差780mです。そして、レポートには橋本さんの体重は「58kg」とあります。車重は9kgと見積もりました。計算結果は以下です。

平均出力261W
パワーウェイトレシオ4.5W/kg
平均速度18.9km/h
平均勾配5.9%

箱根を登ってもまだ残り430kmあり、余力を残してのクライムだったはず。それでも4.5倍のパワーを維持しているのはさすが国体王者です。

ちなみに、この時のギヤ比は「50×18T」。リヤは24Tまで用意していたものの、結局18Tで最後まで走りきってしまったとか。恐るべき豪脚。写真を見てもスプリンターと見紛う筋肉量ですが、ヒルクライムも速い。筋肉は全てを解決するのかもしれません。

芦ノ湖を過ぎ、三島へのダウンヒル。今でこそこの区間の路面は綺麗ですが、橋本さん曰く「当時はガタガタで辛かった」とのことです。ルート全体の路面状況も今とは大きく違ったことでしょう。

我慢の静岡区間

三島まで下りきった所で5分間の小休憩。ここまで既に129kmを走行していますが、4時間20分しか経過していません。

そこから浜松までの約130km区間はレポートの文章中には特に記載がありませんでした。マイペースで走行していたということでしょう。レポートの末尾に付いているタイム実績記録によれば、金谷峠のヒルクライム前に20分の休憩を入れていますが、レポートには金谷峠の話は全く出てきませんでした。当時の橋本さんにとっては取るに足らない登りだったということです。

ニューサイクリング 1973年11月号より。静岡を走る橋本さん

ただ、この区間では足に痛みが出てきていたようで、「サロメチール(消炎剤)を塗ってマッサージを行った」という記載があります。

試練の浜名湖

260km地点の浜松はスタートから9時間14分での通過。

この辺りから、さしもの橋本さんにも疲れが見え始めます。浜松から浜名湖を走る区間は非常に単調な区間で、さらにここまで吹いていなかった向かい風が吹いてきました。レポートにも「潮見坂のあたりまでは、向かい風と平坦で単調な道に精神的にまいってしまった。」という記述がありますが、現在の橋本さんに尋ねても、このチャレンジで最も苦しかったのが浜名湖前後の区間だったということです。

浜名湖は、東京~大阪のちょうど中間地点。中だるみが起きやすい場所でもあり、さらに風向きが変わりやすい場所でもあります。開けている場所なので追い風ならば恐ろしくスピードが出ますが、向かい風だと全く進まず体力・精神力ともに削られる区間となります。

ちなみに、このチャレンジをやるまでの橋本さんの自己最長距離は200km(熊本~鹿児島)。この時点でその距離を大きく超えています。

浜名湖を過ぎた新居町で20分の休憩。ここでもサロメチール&マッサージという記述があるので、足に痛みが出ていたことが伺えます。

岡崎での転機

潮見坂を登り切ると、長い静岡が終わり愛知県に入ります。

二川(現在ではボウリング場「キャノンボウル」があることで知られる)で後輪をパンク。サポートカーからホイールを出してすぐに交換が行われたのでタイムロスは無かったものの、テンションが下がっているところに追い打ちをかけられる格好になりました。

そんな状態にあった橋本さんですが、岡崎での「ある出来事」を境に調子を取り戻すことになります。

走行中、路肩に停止していた車と自転車を追い抜いたのそうですが、なんとその人たちも「東京→大阪」タイムトライアルの真っ最中。橋本さんたちと同じ日に、少し早い時間帯にスタートした人たちがいたのです。

今でこそ東京大阪キャノンボールの挑戦者はそれなりに多く、同日に複数の人が挑戦するケースはあります。ただ、1973年当時としては奇跡と言って良い確率でしょう。

しばらくはもう一人の挑戦者と橋本さんは抜きつ抜かれつの状態になったそうですが、次第に橋本さんが先行していったようです。当時のアマ最強であった橋本さんとやり合えるとは、もう一人の走者もかなりの足の持ち主であったことが伺えます。

この出来事を機に、橋本さんのテンションは完全に復活。ペースを取り戻し、後半区間に挑むことになります。

各々のチャレンジは全く別物のはずですが、「同じ時に同じ目的で走っている人がいる」というだけで、どういうわけか元気が出るものなんですよね。私も初の「大阪→東京」の際に、浜名湖でもう一人のキャノンボール挑戦者とすれ違ってエールを交換した後、物凄く足がスムーズに廻るようになったことを覚えています。

名古屋を通過し、鈴鹿峠へ

すっかり調子を取り戻した橋本さん。快走を続け、13時間21分で名古屋に到着します。

ここで夕食を取りながら30分の大休憩。日も暮れてきたので、「ピットスタッフたちがハンドルにバッテリーランプを取り付ける」との記載がありました。

ニューサイクリングの表紙も橋本さん。右腕上腕部にテールライトが

こちらの表紙写真をよく見ると、橋本さんの右腕には赤い光があります。これは腕に取り付けるタイプのテールライトだそうで。少しでも高い位置に置いて被視認性を稼ぐため、ここに取り付けて走っていたそうです。「夕闇の中を」とあることから、写真が撮影されたのは名古屋の前後であると思われます。

リスタートし、四日市は14時間45分で通過。ここを過ぎると、京都周りルートにおける最後の難関・鈴鹿峠の始まりです。

ただ、当時の橋本さんにとっては鈴鹿峠の登りは物の数ではなかったようで、物流トラックを追い抜いてしまうほどのスピードで登りきってしまったのでした。鈴鹿峠は16時間26分で通過。これで残り100kmです。

橋本さんはそのまま走り続けようとしたようですが、鈴鹿峠のダウンヒルに差し掛かってすぐにサポートカーから休憩指令。近くのコーヒーショップ(レポートにはドライブインとあるが、橋本さんの記憶ではコーヒーショップ)で座って休憩を入れたそうです。

橋本さん

座ってコーヒーを飲みながら「ホントにこんなことしてて良いのかな?」とは思いましたが、これも監督の作戦ということで従っていました。

記事の最後のタイム実績記録によれば、このコーヒーショップで26分も休憩を入れています。確かに傍目から見ても「ここで休まなくても最後まで持つのでは?」という気はしますが、そこは橋本さんの特性を把握した監督がそうすべきだと考えたということなのでしょう。実際、ここからは眠気の出てくる深夜時間帯に突入します。その前にカフェインを投入しておくのは理にかなっているかもしれません。

京都を周り、最後の区間へ

時刻は22時。コーヒーショップでの休憩を終えるとすっかり気温が下がっていたので、タイツを履き、胸に新聞紙を入れて防寒対策。長いダウンヒルに臨みます。水口から草津を抜け、琵琶湖も通過。

滋賀と京都の間には「逢坂」という古くは関所だった丘があります。橋本さんが「東京→大阪」でもっとも印象に残っている光景はこの逢坂を越える時だったそうで、「京都の街の灯がとても綺麗だった」と述懐していました。

三条大橋は通らず、五条大橋を18時間52分で通過。東寺前でラストの休憩を20分入れました。この際には足の甲にかなりの痛みが出てきていましたが、マッサージでなんとか乗り切ったそうです。

ニューサイクリング 1973年11月号より。ラスト区間を走る

日付変わって、0時22分にリスタート。京都から大阪までの道を、時速38kmのペースで快走。

いよいよゴールが見えてきました。

ゴール&記録更新

9/17 1:50、大阪駅前に到着! 橋本さんの挑戦が終わりました。

距離560.9km、タイムは20時間50分。目標の21時間半を上回り、さらに藤田さんの記録を2時間17分更新することに成功しました。

同伴したチームの人達や記者の人たちは「記録更新だ!」と、かなり熱っぽく盛り上がっていたようですが、当の橋本さんは割と淡々としたものだったようです。ニューサイクリングの記事には以下の記載があります。

東京→大阪560kmに及ぶ独走!

なにかドラマチックな感じを受けるが、実際に走って感じたことは「ただ随分走ったもんだな」というくらいのものでしかなかった。

タイムの更新が出来る・出来ないは別として、「自分でどれくらい走れるかを試してみよう」という気持ちで走ったので、そこに感激も何もなく、一つのことを成し遂げたという静かな喜びだけが自分に返ってきた。

ニューサイクリング 1973年11月号より

これぞアスリート。武士道精神すら感じられる一文です。

ゴール後の話

この先はニューサイクリングの記事には書かれておらず、橋本さんから直接伺った話です。

深夜2時前に大阪駅にゴールした橋本さん。実はこの時、監督である植原さんのお兄さんが大阪・堺市に住んでいたそうで、そちらに泊めてもらうことになったそうです。

baru

大阪駅から堺市までの移動(約20km)はどうされたんですか? まさか自走で?

橋本さん

いえ、さすがに車に乗りました(笑)

風呂で汗を流し、ようやく布団に入れた橋本さん。しかし、ラスト区間でコーヒーを飲みすぎたらしく、目が冴えてしまって結局朝まで眠ることが出来なかったそうです。「カフェインのとり過ぎには注意が必要」と仰っていました。

機材・ウェア

機材とウェアのチョイスについても、橋本さんに直接聞いてみました。

機材

使用したフレームは、シクロサロン植原のオーダーフレーム。作者は梶原利夫氏ということで、藤田さんと同じですね。この頃の東京近辺の競技者は梶原氏のフレームに乗っている人が多かったようです。

ブレーキ・シフト関係はカンパニョーロ・レコード。サドルはブルックスを使用。

ホイールは4種類用意したものの、使ったのは1種類か2種類だけだったそうで。320gのリムを使い、タイヤは240gの軽量タイプと、400gの耐久性重視タイプを用意していたようです。

ウェア

ニューサイクリングのレポートは、1970年に藤田さんのレポートを書いたのと同じ方(今井千束氏)が書いています。その中に「橋本選手は、藤田選手と同じ黄色いジャージーを着ている」という記載があって、私はこれが気になっていました。

黄色いジャージを着ている橋本さん

ニューサイクリングのカラー写真を見ても、確かに黄色いジャージを着ていることが分かります。

1970年の「東京→大阪」チャレンジ時、藤田さんが黄色いジャージを着ていたのは「被視認性を高めるため」でした。反射テープを背中に張り、夜間の被視認性も考慮していたようです。夜間の背中側を映した写真を見ると、ジャージだけではなくサイクルキャップの後頭部もしっかり光っています。そんな所にも反射テープを貼っていたとは。

きっと橋本さんも同じ理由で黄色いジャージを選んだのでは?と思って質問してみたのですが。

橋本さん

そういった意図は特に無くて、当時よく着ていたジャージだったからですね。あと、黄色が好きなんです。

単に「好みの色だったから」という理由でした。でも、自らのテンションを上げるために好きな色を身にまとうのは大事なこと。黄色ならば結果的に被視認性も稼げて大正解ですね。

その他

「東京→大阪」挑戦後の橋本さんの活動についても書いておきます。

競技生活

1973年の「東京→大阪」挑戦後も橋本さんは競技生活を続け、30歳になる1978年までは全国大会で上位に食い込むほどの熱量を持って取り組んでいたそうです。

30歳を過ぎてからは少し熱量を下げながらもレースは継続。40歳までは実業団登録をして走っていたとのことでした。

ファストラン

競技活動を続けながらも、橋本さんは港サイクリングクラブのファストランイベントにも精力的に参加。

港サイクリングクラブはこの「東京→大阪」の他にもさまざまなチャレンジ企画を独自に行なっており、その中でも再長距離だった企画が1974年の「青森→下関」のリレー形式タイムトライアル。1827kmの距離を65時間24分で走りきったそうです。

この時、橋本さんは東京→浜名湖区間を担当。静岡の平坦区間で「東京→大阪」の時の辛さを思い出してしまい、苦しみながら走ったという話をされていました。

東京~直江津ライド中の橋本さん(写真右)

「青森→下関」のリレーは5年毎に何度か行われたそうですが、年々運営体制の維持が難しくなり、ある時から「東京→直江津」イベントに切り替わったそうです。プロフィールの章にも書いた通り、橋本さんは今年もそのイベントに参加されていました。

まとめ

1973年に「東京→大阪」の記録を塗り替えた、橋本治さんへのインタビューでした。

植原さんへのインタビューでは作戦面について深く伺うことは出来たものの、「やはり実際に走った人の話も聞きたい」と考えていました。

今回、走者である橋本さんにお話が聞けてよかったです。「同じタイミングで東京→大阪を走っている人に出会って復活した」というエピソードは、やはり走者本人の言葉でお聞きするとより真実味を持って聞こえてきます。

ニューサイクリングのレポートには「CONTRE LA MONTRE」というサブタイトルが付けられていました。これは、フランス語で「タイムトライアル」を意味する言葉です。そこに添えられていた言葉が印象的だったので、引用して紹介しておきます。

コントルラモントゥルとは本来、他者と優劣を競うものではなく、純然たる個人種目である。それはつまり相手が存在していないということで、強い精神力、強い意志が必要とされる。
特に東京・大阪間といったような長い距離になってくると、先にあげた二つのものの他に、十分に自らの肉体をコントロールできるだけの能力が必要となってくる。
そこに例え過去の記録があるにしても、むしろこの長距離を走破したところに、本来の意味での真の勝利があったのである。

ニューサイクリング 1973年11月号より


「東京→大阪」挑戦から51年が経過し、76歳となった橋本さん。現在でも、週に2-3回はロードバイク(これも梶原氏の作らしい)で荒川を20~40kmほど走ることを習慣化しているそうです。近場の移動はシティサイクル。競技的な走りはしないものの、自転車にはずっと乗り続けているとのこと。

橋本さん

やっぱり自転車に乗ることが好きなんですよね。シティサイクルでも、ロードレーサーでも、とにかく乗り続けたいと思ってます。

インタビューの終わり際、橋本さんは「5年後の東京→直江津も走りましょう!」と大竹さんを誘っていました。今年は怪我があってハーフコースでの参加でしたが、次回はまたフルの300kmコース参加を希望されているようです。

熱い挑戦から50年。未だ冷めない自転車への情熱を感じられたインタビューでした。

著者情報

年齢: 40歳(執筆時)
身長: 176cm / 体重: 82kg
自転車歴: 2009年~
年間走行距離: 10000~15000km
ライドスタイル: ロングライド, ブルベ, ファストラン, 通勤
普段乗る自転車: GHISALLO GE-110(カーボン), QUARK ロードバイク(スチール)
私のベスト自転車: LAPIERRE XELIUS(カーボン)

# 乗り手の体格や用途によって同じパーツでも評価は変わると考えているため、参考情報として掲載しています。
# 掲載項目は、road.ccを参考にさせていただきました。

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この記事を書いた人

ロングライド系自転車乗り。昔はキャノンボール等のファストラン中心、最近は主にブルベを走っています。PBPには2015・2019・2023年の3回参加。R5000表彰・R10000表彰を受賞。

趣味は自転車屋巡り・東京大阪TTの歴史研究・携帯ポンプ収集。

【長距離ファストラン履歴】
・大阪→東京: 23時間02分 (548km)
・東京→大阪: 23時間18分 (551km)
・TOT: 67時間38分 (1075km)
・青森→東京: 36時間05分 (724km)

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